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言葉の巡礼/京都

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 気候変動の煽りを受けたティラノサウルスがその巨体に不釣り合いな両の手で暖をとろうとしている頃、私は地方都市に暮らす中学生だった。正確には"不登校になりかけの"が正しい。朝に家を出ても列車のホームまで来ると、足がすくみ動けない。学校とは反対方向へと規則正しい長方形の箱に運ばれ、毎日海を眺めた。砂浜に座っているのが辛くなる頃には時計は正午を指し、渋々登校をすることの繰り返し。

 

 あの頃に絶えず聴いていた曲を、寝返りを打つ回数にうんざりする明け方に聴く。耳に流れ込む歌詞から思い出すのは海風の塩っぱさと言葉にできない感情で蹴り上げた流木、知らないままでいることもできたけれど無駄なことでもなかった。泣きながら聴いていた神聖かまってちゃんの曲を、小さく小さく流しながら眠る。

 

 学部の友人と大阪まで美術展へ。シーレは自身の自画像の中で右手の指たちを羊がチョップするかのように、奇妙な形で前に突き出している。彼の虚空を睨みつける目、問いなのか答えなのか突き出す手。友人とふたり、シーレと同じポーズを取り絵の前に立っていた。

 

 夏の休暇が終わる、私は始まる。