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言葉の巡礼/京都

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 ここのところ週末に家を空ける機会が多く、セブンイレブンが私の台所になっている。決まって麻婆豆腐かアジの一夜干しご飯、近所の店舗になければ別の台所へと渡ってゆく。今夜はアジの一夜干しご飯のみが販売されていたので、過剰な愛しさ「小骨に注意してください」のラベルを撫でながら帰宅。少しのお節介と大きな愛、もしかしたら母親なのかもしれない。お母さん、と呟きながら口いっぱいに頬張ると喉の奥に痛みが走る。お母さんなんて呼ばない。

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 人をダメにするソファは身体をたゆたわせる物なので、枕にしないほうがいい。首がダメになる。ピザを頬張り、小さな画面に額を3つ突き合わせ、永遠に笑う夜を友人宅で越えていた。右を向けなくなった首を抱え、ヨレヨレのスーツと明け方に帰宅。

 

 人が語りたがらない事柄の背景に潜り込みたい。レビ記の経血に関する記述から、女性の浄不浄の規定を考察して卒論を書こうと木曜のフェミニズム神学の講義中に思いつく。タブー視されてきた生理に、神学と社会学の両面から踏み込む方法を模索している。ウガンダにおける生理の捉えられ方に関する論文を読んでいたら、タブーという言葉自体がポリネシアの言葉で"月経"を意味する語に由来することを知り胸がギュンギュン熱くなった。純粋な知に触れられている今がいっとう幸せ。

 

 ベローチェでIELTSの勉強をしながら、黒糖オレにグラニュー糖を入れていた。ズタズタのコンセプト、砂糖水でも啜ってろ。

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 タイトルが思いつかなくて素数にしていたのだけれど、洗面器にヒヨコ豆くらいの数学センスで考え続けるのには限界がやってくる。

 

 23時のフロアで揺れていた。クラブメトロに石野卓球とアスパラのDJで体を揺らしに、そんな金曜の夜。時間の許す限りいつも一緒にいる友人たちと、顔を近づけて、遠のけて、手を重ねて、離して、クラブナイトは瞑想と似ている。カレンダー上を跨いで石野卓球が登場すると、友人曰く「善良な暴徒が集うゴッサムシティ」と化す会場。翌日の労働を憎らしく思いながら、白目を剥いて帰宅する。夜の冷えた土の香りを鼻に擦らせながら、初めて吸ったラッキーストライクは美味しかった。

 

 暮らしの全ては虚構、アルバイトのことは「上司を山に埋める」と呼んでいる。汗水流して彼を山に埋めた。シャベルの重みはジェンダーバイアス丸出しのその人から受ける苦痛と同量、何度も何度も私は土を上司に被せてゆく。やがて何も聞こえなくなった、山肌は紅葉までもう少し。

 

 人型を模した虚無が烏丸通を歩いていると、友人からピザを食べに来ないかと連絡がきた。バスに飛び乗り、友人宅へ。ピザを食べながら韓国のオーディション番組を観て、ひたすらに笑っていた。「モルゲッソヨ(わからない)」と連発する審査員がいて、知っている韓国語がひとつ生まれる。

 

 明日のことだなんてモルゲッソヨ、誰しもモルゲッソヨ