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言葉の巡礼/京都

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 礼拝学のレポートを書く為に大学図書館にいた。神学に関する文献が並ぶ隣の棚は哲学、シオランの著書たちと目が合う。

 

 大学に入りたての頃、地下の食堂で哲学科の新入生に話しかけられた。重い睡眠障害と憂鬱を埋めるように、シオランの研究にのめり込んでゆく彼女。大垣書店哲学書の棚を覗いてから、三条烏丸のスタバへ行き死生観やマイノリティの生きづらさ、反して言葉にもできないくらいくだらないことまで夜通し話していた。成人した私にアメスピの美味しさを教えてくれた彼女。お礼にセブンスターを1本あげると、最後に会う日まで友人の左手にはいつも同じ銘柄があった。

 

 彼女との連絡が突然途絶えたまま私は進級し、印のつかないLINEを送り続ける。何度目かの壁打ちのあとに、大学を辞め故郷へ戻る前に一度会おうと連絡がきた。近所のカフェでお茶をした。深い緑のビロードの椅子を、しきりに褒める友人。いつかこんな椅子を購入して、読書をしたいと話していた。広島に帰るけれど、住所を伝えておくからまた遊びに来てと笑いながら別れる。

 

 「生まれてきた子供にインド映画を絶えず聴かせたらヒンディー語話者になれるかな」私が別れ際に呟いたことに、丁寧に答えるメッセージを最後に友人から印はつかない。彼女の実家に電話をしようと幾度も思いながら、もし友人がもう同じ世界にいない事実を告げられたらと怖くてできていない。明け方の鴨川をふたり歩くとき、シオランの死生観を話すとき、タリーズで煙草を燻らせるとき、彼女はいつもこの世界とは別の場所に浮いているような人だった。

 

 半年ぶりに、シオランの棚の前で彼女に連絡をする。